ある中高年ランナーの悪あが記

長引くハムストリングス付着部炎に悩まされながらも走ることを諦めきれない高齢者ランナーの奮闘記

羽州浜街道ランその⑤(潮風公園~上浜駅 ※象潟観光)

 一昨日(3/28)は、羽州浜街道ランの第5弾としてにかほ市潮風公園から上浜駅までのランを行いました。

 ルートは次のとおりです。

 まずは、今回も前回同様に潮風公園に車を置きます。

 

 そして前回来た羽州浜街道沿いの飛良泉本舗に着きました。ここから今回の羽州浜街道ランのスタートです。

 

 スタートしてすぐに「TDK歴史みらい館」がありました。

 TDKはかつてはカセットテープやビデオテープを製造していた大手電子部品メーカーです。旧街道を辿り、往時の面影を探しながら走る、というこのランの趣旨とは若干異なりますが、予定より早くスタートしましたので時間調整を兼ねて見学しました。

 ただ、今回のランは見どころが多く、長文になりそうなので見学の詳細は割愛します。

 海岸沿いの道路を西に700mほど進むと漁港のそばに大きな石碑がありました。

 「舩玉大神」と刻まれています。「船玉(船霊)」とは、船や乗船者の守護神とされ、航海関係者に信仰される神様のようです。明治4年に建てられた石碑のようで「海上安全」とも刻まれていました。

 

 そこから更に西に1.2kmほど進み、高昌寺というお寺の入口の角に地蔵堂が2つ並んでいました。

 そしてそこには「禁葷酒(きんくんしゅ)」と書かれた石柱がありました。

 「禁葷酒」とは、辛味や臭気など刺激の強い野菜と酒の持ち込みを禁ずる、ということのようです。

 

 さらに300mほど西に進み白雪川の河口付近に架かる白雪橋に来ました。橋から見た日本海です。

 また、反対側を見ると鳥海山が綺麗に見えます。

 

 橋を渡り200mちょっとで稲荷神社に着きました。

 この稲荷神社は、慶應4年に戊辰戦争により社殿が焼失して明治2年に再建されたものとのことです。

 稲荷神社の裏側は芹田岬になっていますので寄り道しましょう。

 

 さて、これからは南に進みます。国道7号線を横切ってすぐの集落に入る道路の入口に大きな石碑がありました。

 「牛頭天王(ごずてんのう)」と刻まれています。牛頭天王は、京都の感神院祇園社(現 八坂神社)の祭神で、牛頭天王の神格については様々な説があり定説は確立していないようですが、いずれにしろ疫病を司る神とされていたようです。

 確かに石碑の裏には「元治元 子歳六月吉日」と「村中安全」の文字が見えますので1864年に住民の安全を願って建てられたものでしょう。

 

 その後も南下を続け「勢至(せいし)公園」に着きました。

 勢至公園は、秋田県内で最も早く桜が開花する名所として知られている公園ですが、

さすがにまだ桜は咲いていません。白い梅(?)は咲き始めていました。



 勢至公園を出て金浦港のそばに来ると高台の中腹に何やら石仏らしきものが見えます。行ってみましょう。

 どうやら海難者を供養する石仏のようです。

 左(※上の写真の1枚目)の石仏は元文2年(1737年)の海難者86名を供養したもの、中央(※上の写真の2枚目左側)の石仏は慶応元年(1865年)の海難者34名、そして右(※上の写真の2枚目右側)の石仏は明治19年1886年)の海難者4名と明治25年の海難者10名の供養碑ということです。

 

 この高台は津波の際の避難所にもなっているとのことです。上まで行ってみました。金浦港が見えます。

 予定に無い行動が多く、だいぶ時間が押してきましたので先を急ぐことにします。

 予定していた道の駅象潟での休憩をパスして「坩満寺(かんまんじ)」の入口に着きました。

 坩満寺は、仁寿3年(853年)に天台座主円仁(慈覚大師)の開創と伝えられていますが、古くから文人墨客が訪れた名刹として知られ、元禄2年(1689年)には松尾芭蕉も訪れています。

 入口の手前を左に進むと芭蕉があります。

 そしてその向かい側には西施(せいし)像があります。

 西施は、中国の春秋時代の越の美女ですが、なぜ坩満寺にこのような像があるのでしょうか?

 その謎は西施の像の説明板を見て解けました。

 芭蕉はこの坩満寺を訪れた際に、「象潟や 雨が西施に ねぶの花」という句を詠んでいるんですね。

 

 ところで象潟は昔は広範囲に潟湖になっており、潟湖に島々が浮かぶ風光明媚な景勝地でした。そして芭蕉が訪れたころの坩満寺はその湖畔になっていたそうです。

 ところが、1804年に発生した象潟地震により湖底が約2m隆起し、湖の大部分が干上がって現在は田んぼの中に島が点在するような景色になっています。

 こんな感じで、「九十九島」と呼ばれています。

 では、坩満寺に行ってみましょう。

 ここが山門です。

 

 そして本堂です。



 庭園に入ると「親鸞聖人御腰石」がありました。

 ただ、これは親鸞がこの地に来たのではなく、肥前島原の西方寺にあった親鸞が腰掛けたとされる石を安永6年(1777年)に切支丹ノ変を避けるために信者が蝦夷地に輸送中にシケにあい、象潟に陸揚げしてここに納めたものと言われているようです。

 

 そして芭蕉の句碑もありました。

 

 また、昔はこの坩満寺が湖畔になっていたことの名残でしょう。「舟つなぎ石」というものもありました。

 このほかご紹介したいものはたくさんあるのですが、長くなりますのでこの辺にします。

 予定通りの時刻に坩満寺を出て再び羽州浜街道を進みます。象潟ではところどころに「きさかたさんぽみち」という標柱が立って道案内をしてくれます。

 標柱のすぐそばには「猿田彦」と書かれた石碑と祠それに石仏がありました。

 「猿田彦」の名前は聞いたことが無かったので調べたところ、神話に登場し、猿とも天狗ともいわれる怪奇な風貌をしている導きの神、道の神だそうです。猿田彦を祭神とする神社は全国に二千余社あるそうですので、もしかしてこれまでも見たことがあったのかもしれません。

 

 なおも街中を進むとレトロな洋風の建物がありました。象潟公会堂です。

 昭和9年に建設され、今もコンサートホールとして現役で活用されているようです。

 

 そして象潟公会堂の入口付近には「紅蓮尼生誕地跡」ということで紅蓮という尼さんの石碑と紅蓮さんの物語が書かれた説明板がありました。ここの紅梅は開花が進んでいました。

 

 この辺は寺や神社が数多くあるのですが、この後に乗る電車の出発の時刻が迫ってきているので立ち寄る訳にはいきません。

 ただ、途中で「古四王神社」という名前を見つけました。

 私の住む秋田市にも古四王神社という神社がありますが、秋田市の古四王神社と関係があるのでしょうか?

 説明板には、ここの神社は秋田市の古四王神社に分霊をお願いして建立したものとされていると書かれていました。



 さあ、あとは寄り道しないでまっすぐに進みましょう!

 ただ、終盤になると疲れが出てなかなかスピードが出ません。キロ6分台の後半になってしまいました。

 国道7号線に入って南に進み、上浜駅への入口に来ました。ここが次回の旅ランのスタート地点です。

 

 上浜駅に着きました。なんとか発車時刻の5分前に到着です。

 そしてJRで車を置いてある潮風公園の最寄り駅である仁賀保駅まで移動し、潮風公園から自宅まで車で戻ってこの日の旅ランは終了しました。

 この日の走行距離は19.1kmで、ロキソニンを飲んでもハムストリングス付着部炎による右臀部の痛みはありますが、旅ランの楽しさが痛みより勝っている感じがありますので、これからも旅ランを続けられそうです